沖電気工業と言う安定した上場企業のサラリーマンだったのに一転して脱サラ。赤帽と言う個人事業の運送店のスタート。そして後に赤帽組合から独立して運送会社になって、2018年現在までの経緯を書いてます。

沖電気工業を脱サラ 1997年

幕張メッセ近くのワールドビジネスガーデン1997年まで、私は東京の沖電気工業株式会社でシステムエンジニアとして働いてました。
学生時代から憧れの一部上場企業勤務でした。

この写真は当時、沖電気の私の職場が入っていた幕張のWBGと言うビルです。

若い頃の私は不必要なほど生真面目で息抜きが出来ない性格で、結果、頑張りすぎて慢性腎炎になってしまいました(脱サラが幸いして今では例外的治癒しております)。

当時、このまま進めば人工透析と言う病状だったので、ストレスから解放されて個人事業を妻と二人で協力で、二人で一人分の仕事をするペースなら、私の体を守って生きられると意味不明な理由の脱サラでした。主治医からはワーカーよりエンジニアの方が体に楽だと言われてました(笑)。

仙台へUターン

脱サラして個人事業で運送業をするには、土地勘も必要と考え仙台市泉区の実家にUターンを決めました。
子供達には転校という苦労を負わせ、妻にはママ友との別れ、主婦として慣れ親しんだエリアから離れさせて、専業主婦のつもりで結婚したのに軽運送へ巻き込みました。
更に、妻としては私の実家で両親と同居する事になってしまったので、妻にも迎える両親にも苦労させてしまいました。
今思えば、全員が一人残らず良く賛同して助けてくれたと思います。

赤帽組合を選んだ理由

脱サラで軽運送を開業する場合に、所属組織としては色々選択肢がありました。
その中から赤帽組合を選んだ理由を書きます。

軽運送開業を斡旋する組織は色々ありまして、特に仙台に戻る前は東京、千葉のエリアで開業相談会に行けましたので、色々な組織の勉強になりました。

その相談会の中で唯一、自分の所で開業しましょう!的な開業への勧誘が無い説明だったのが赤帽組合が唯一でした。
やるなら自己責任でと言うスタンスが気に入りまして赤帽に決めました。当時はそうですが今もそのような説明会なのか?それは私はわからないのでご了承ください。

それと、当時住んでいた関東エリアの話ですが、街にいる赤帽さんなど、軽運送業者さんに突然お声がけして、突撃インタビューですね。それで実際の業務内容や売上、その仕事でのご苦労話等厚かましいけどヒアリングしてました。

その結果、なんとか出来るような気がして赤帽に決めました。

でも最初に受けた開業説明会は東京の赤帽組合でしたが、そこで言われたのは、赤帽組合も地域性があって全国同じでは無いし、仙台は特別変わっているので、決意する前に仙台の赤帽組合で再度説明を受けるように言われました。

言われた通り、仙台の赤帽組合で説明を聞きまして、何が違うのかな?と思っていたのですが、どうやら東京の赤帽組合は自営が基本というスタンスで新人さんには仕事を配車するが、その間に自力で立ち上がってください。でした。

それに対して仙台の赤帽組合は、自営では無く組合の配車受けるのが新人もベテランも含めた基本スタンスで、特にベテランになる程その経験値から良い仕事にありつけるスタンスのようでした。

つまり個人事業として一人でやるのでは無く、赤帽組合のいわば社員のように動くのが仙台のシステムのようでした。

私の場合は、自営で独立したかったので違和感があったのですが、仙台の赤帽組合では自営を目指すことに制限は無いと言うことで、安心して仙台の赤帽組合所属で開業することとなりました。

赤帽の実務研修

当時の仙台の赤帽組合はメイン業務が宅配だったので最初1ヶ月は宅配オンリーの実務実習でした。

早朝5時過ぎに赤帽組合に赤帽車が沢山集まって来て、最初に荷物の仕分けから始まり、八時頃には担当エリアに散って配達する。
夜は20時頃まで配達して、不在の荷物は自宅車庫に持ち帰る。
その毎日の繰り返しでした。土日も含めて休みなし1ヶ月間の宅配研修を頑張りました。

サラリーマン時代も仕事中心だった私は、この程度の労働時間と休日返上など屁の河童だと楽しく過ごしておりました。

赤帽時代にテレビ取材中に撮影された写真

赤帽時代にテレビ取材中に撮影された写真

恥をかきながら

お恥ずかしい話ですが、私はサラリーマン時代は宅配伝票を見た事もなく根っからのエンジニアでした。

赤帽を開業して初めて宅配伝票を目にした世間知らずでした。

代金引換で配達した時に、配達先の奥様がクスッと笑っていて、何だろう?と不思議に思った日がありました。

代引は、お金を受け取った証拠に私がサインして来るはず。と思ったのが勘違いと後から知りました。

このような技術バカの世間知らずだった私が軽運送業をスタートするには、やはり業界パイオニアの赤帽組合に加入して正解だったわけです。

開業当初の状況

赤帽組合所属で組合の仕事をメインに動き、自営で直接獲得した仕事をする状況でした。

おそらく比率は組合業務が90%以上でした。

インターネット活用 1998年

以前のサラリーマン経験が生かされて、東北の赤帽ではまだ珍しかったホームページとメールフォームでの商談システムを早期に導入しました。

それが当時珍しい最先端の赤帽だとメディアに注目されるきっかけになりました。

テレビ、ラジオ、全国紙の密着取材を何度も受けるようになり、知名度が上がり、仕事量も増えて来て組合の下請けをしないで食べて行けるようになって行きました。

リクルート アントレー別冊独立事典

リクルート アントレー別冊独立事典

グループ営業 2004年頃

個人事業の赤帽として自分のキャパを超える日が多くなりました。

お客様からは「桃井さん自身が来ないのかい?」と言われる事が増えて来て、説明も面倒になって来たので「赤帽ももちゃん便グループ」と言うグループ名称で営業するように切り替えました。

赤帽の広告塔 2007年頃

当時最先端だったインターネットを活用する営業方法が話題となり、テレビの密着取材( 東北放送 、 仙台放送 )や TBCラジオ、全国誌(リクルートアントレー別冊独立辞典特集)など頻繁にメディアに出させて頂いた経緯で、当時の全国赤帽組合連合会の副会長(森氏)とも懇意にさせて頂けるようになりました。
首都圏の赤帽組合連合会の入会案内パンフレットでもモデルケースとして私と妻が掲載されて赤帽の広告塔的な立場になっていた時期でした。

この頃は長距離チャーター中に、遠方のサービスエリアなどでトイレに立ち寄ると、高い確率で見知らぬ現地赤帽さんから声がけされました。「あの有名な赤帽ももちゃん便さんですよね?」って具合でした(笑)。
赤帽業界では有名になって、引越し業界でも仙台では私くらいしかインターネット活用してなかったので、競合する引越し会社さんから見たら、赤帽でインターネットで競合するのが私くらいだったので、意外と引越し業界でも目立っていた事を最近になって知ることがありました。

この頃の赤帽ももちゃん便は、良い噂も、根も葉も根拠もない悪い噂まで、一夜で全国の仲間に広まる驚きの時代でした。

個人事業から株式会社へ 2009年

「赤帽ももちゃん便グループ」としての組織的な営業に慣れて来たのと、契約には法人格のある方が便利だったので、正式に法人格を取得して「株式会社ももちゃん便」となりました。

この法人化して数年間はまだ業務メニューは赤帽時代のままで、定期業務も、個人様引越業務も、なんでも受注する雑食性の状態でした。

パワーゲート業務開始 2009年

当初は高額なゲート車など想定外でした。高額な上に用途が限られてしまうからです。
しかし、ある医療機械メーカー様から直接ご相談があり、現在の運送業者と切り替えたいので、桃井さんの所でパワーゲートを導入して欲しいとの事でしたので、思い切って購入したものでした。
その後、軽運送業界では希少価値だったパワーゲート付き軽トラック(ホロ)を2台に増車しました。

パワーゲート

パワーゲート

 

東日本大震災 2011年

東日本大震災3.11がありました。
幸いにも当社の自宅兼事務所は、仙台でも内陸部に位置しており建物、車輛とも大きな被害は逃れました。
また当日の沿岸部への当社の配車は幸いにも午前中のみで、震災発生の午後は全ドライバーが内陸に戻っており契約ドライバー全員が無事に生き残りました。
プライベートな話ですが、長女の婿殿は津波発生時間に沿岸部でレッカー車による仕事中だったため、その車を乗り捨てなんとか無事に命が助かりました。
そのまま避難した建物の屋上で寒さの中で一夜を過ごしたそうです。
沿岸部へ嫁いだ長女との連絡が震災翌日まで途絶えてしまって大変不安になり、家族でいくつかの避難所を探し回り避難所校庭で娘の車の中で仮眠していた所を発見。
嫁ぎ先の東松島市への移動は道路も鉄道も寸断され無理だったので、とりあえず仙台市泉区の我が家に連れ帰りました。
当面は道路も電車も寸断されて連れて行けない状態で親子4人の懐かしい生活に戻りました。
ちなみに私自身は3.11震災発生時刻には、秋田市内で精密機械チャーター輸送途中で秋田は震度5でしたが、秋田全域が停電してそのまま夜になっても回復せず。
ガソリンが無いのにスタンドは閉鎖されており、災害時営業スタンドの看板を頼りに何時間も並んだら「緊急車両のみ受け入れます」何時間も待たされた後で言われ絶望と宣伝に偽りアリの怒りでした。
家の様子が不安なのに仙台に戻れず、電話も通じない不安な一日でした。
しかし、親切な現地警察官の助けで帰り分ギリギリのガソリンをなんとかゲット。
被災した凸凹道で、街灯も信号も無い真っ暗な夜道を仙台まで戻りました。
そのあとが長女の救出でした。
震災から一週間程度経過した時には、救援物資輸送業務でマスコミも入らない沿岸部の現状を見て人生観が変わりました。

赤帽フランチャイズ卒業 2012

赤帽の看板を所持するには赤帽専用サンバーしか所持できないデメリットもあり赤帽からの脱退(今風に言うと卒業)を致しました。
赤帽時代との違いは、個人引越しを廃止して企業チャーター専門の運送会社として生まれ変わった点です。
こうしてみると昨年の震災以降に大きな変化がありました。

初代ターボ車 2012

企業チャーターに最適な高性能ターボ車と期待してエブリーJOINターボ導入しましたが、当社業務ではエブリーターボは耐久性が弱く早々にリタイヤとなり1年半で買い替えに(笑)。

エブリーJOINターボ

次のターボ車 2014年

スズキのエブリーターボが早々に壊れてしまった事から、2014年時点で軽貨物で最高性能と思われる車を導入。
ダイハツのハイゼットクルーズカーゴOEM版でスバル富士重工業のサンバー・VCターボ4WD 5MTを導入。
エブリーJOINターボに比較して当社の業務に最適である上、スバルディーラーの対応も赤帽時代からの営業車に慣れている為に修理メンテの対応も素晴らしい。

サンバーVCターボ

パワーゲートからスロープタイプへ

これまで力を入れて来た「パワーゲート車」の欠点を改善すべく新型特殊車両の導入。
当社だけのホンダN-Box構造変更車両です。
福祉車両ベースに床を更に低床化するなどの構造変更で営業ナンバー取得。
ホンダディーラーの対応は営業車にさほど慣れてないのですが、大変素晴らしい対応でした。
おそらく、次もホンダで買うだろうと思います。

パワーゲートを超える安心感

イメージガール 2015

当社HPのイメージガールです。
この時代は、エリカは東京の劇団ひまわり在籍中で舞台、映像、ユニット活動をしておりましたが、現在は本来の目的だった声優として「Still Wood Garden」と言う事務所に移籍して声優、俳優として頑張ってます。
声優・俳優の桃井絵理香HP

桃井絵理香 声優 俳優 ピーベリー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年現在

1997年の赤帽ももちゃん便のスタートから数年後に赤帽ももちゃん便グループとなり、さらに数年して法人化して赤帽 株式会社ももちゃん便となり、その更に数年して赤帽組合を卒業して純粋に株式会社ももちゃん便となった流れをまとめたページです。

2018年の現在は軽貨物のトラックを一切使わないで、軽のバンかワゴン車だけで対応する体制に絞り込んでます。
ももちゃん便は、数年先は何を変化しているのか自分でも解らない変化の速度だと振り返ってみて思います。

とりあえず、現在は緊急チャーター便と超音波装置輸送を中心に日々の急送業務に取り組んでおります。

 

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