TBC週刊パパラビゾーレ

脱サラ→赤帽→運送会社

沖電気工業から脱サラして、赤帽と言うフランチャイズで個人事業主の運送店を開業、そして後に赤帽組合から独立して運送会社になるまでの経緯を時々書き足して行きます。

その道のりは同じように軽運送を始める人の参考になるかもしれません。

また、企業のお客様には、数ある軽運送店、運送会社の中で当社を選択する場合の参考になればと思います。

脱サラ 1997年

1997年まで、私は東京の沖電気工業株式会社でシステムエンジニアとして働いていたのですが、若い頃は生真面目で息抜きも出来ない糞真面目な性格だったので、自業自得ですが頑張りすぎて慢性腎炎になってしまいました(脱サラが幸いしたのか?今では例外的治癒しておりますが)。

当時、このまま進めば人工透析間近と言うレベルだったのですが、沖電気に在籍したままでは、性格的に身体を守りきれないと判断しました。

そこで個人事業を開業して妻と二人協力すれば、二人で一人分の仕事をするならば体を守りながら生きられると意味不明な理由を考えての脱サラでした。

その時点では選ぶ業種は決めてませんでしたが、唯一思ったのは、当時、懇意にさせて頂いていた清水榮一先生(多くの著書を残され既に他界されてます)の影響もあり、寝食忘れて没頭できる事、ダイレクトに人と関わり楽しめる職業を探しました。

それまでの大企業でのシステムエンジニアは、仕事に没頭は出来たかも知れませんが、寝食忘れて取り組むと言うよりも、精神的にも肉体的にも疲労を感じました。

その間、最も長時間接する相手は誰かと言えば、ツールであるキーボードと画面、そして、プロジェクトに関わるエンジニアばかり。エンドユーザーが自分のソフトウエアの恩恵を受ける姿を見るチャンスは一生無さそうな職場でした。

一応、補足しますが、今になってみたら大企業でしか体験できない事ばかり。

長期大規模プロジェクトの経験、C言語、C++言語、アセンブラ、CHILL言語、ISO9000の勉強、日本の最高レベルのNTT電気通信研究所でのメーカーとしての常駐経験。とても楽しく貴重な経験の数々でしたが、とりあえず私には不向きでした。

当時、社宅が千葉県だったので、休日に房総半島方面にドライブした時に、軽運送の軽トラックとすれ違いました。

その瞬間、これをやって見たいと思いまして、その場で、妻に相談すると妻は即決で「良いんじゃない」と賛成してくれました。

上場企業の安定したサラリーマンの妻だった専業主婦の妻が即賛成です。

全く職業キャリヤも手に職も無い妻ですよ。私が失業したら大変なのに。

夫が安定した職を失うリスクは家庭の危機です。それを開口一番、迷いは一秒も無しに快諾してくれたこと。

当時は感謝する余裕もありませんでしたが、今思えば反対せずに協力してくれた妻がいなければあのまま腎臓を悪化させて私は既に死んでいたのではないかと思います。(繰り返しますが、脱サラ数年で腎臓は例外的治癒しています)

まずはUターン

脱サラして、当時は赤帽ももちゃん便(個人事業主で赤帽組合のフランチャイズに加入の軽運送店)を開業しました。

その為に、土地勘が必要だと考えた私は仙台市泉区の実家にUターンを決めました。

当時は家族の事を思いやる余裕がありませんでしたが、子供達には転校という苦労を負わせ、妻にもママ友との別れをさせて、専業主婦から軽運送屋の共同経営、さらに、私の実家で両親との同居まで強要する事になってしまったのでした。良く賛同して助けてくれたと感謝しかありません。

実家の有り難み

Uターンする理由は、運送屋として土地勘が必要だと考えた事が一番の理由でしたが、実際に開業して見たらメリットは他にもありました。むしろ、そっちが大事だったのかもしれません。

経済的側面

元々、いずれは両親と共に住む予定だった自宅でしたが、それは両親の老後のお世話をするつもりの計画でしたから、まさか自分の都合で同居が前倒しになるとは!人生って先は分からないものです(笑)。

実際に開業して見たら、思った以上に予想外の経費が多く出てしまったので、立ち上げ数ヶ月の経費が大きくなりました。

(一例としてゼンリンの住宅地図を一式購入するだけでも大金)

こうしてみると、個人事業を開業して立ち上げ時の赤字をしのぐため、不安定な所得でも困らない為に同居することは正解でした。

家族の助け

  • 留守を守る両親
  • 幼い娘たちは、不規則な仕事で両親不在なのを耐えてくれた
  • 千葉の快適なマンション生活から両親との同居に賛同してくれた妻
  • 本当は、のびのび暮らしたかったはずのに、我々を受け入れてくれた両親
  • 世間知らずの私を共同経営者として補佐する妻
  • ネットで知り合い遠く北陸から経営者としての心構え、趣味の援助、色々してくれた他人だけど義理の兄のような友人
  • 横浜の地から私の息抜きのアマチュア無線の指導と援助をしてくれた父の旧友のOMさん

これら家族や友人の支えがあって継続して来れた事が今振り返って見ると分かります。

所属組織を探す

この先の説明では、赤帽組合の加入説明会の話などにも触れてますが、それは私が開業した1997年当時の私個人の印象であり、また私の主観で見た印象で書いてます。
もし、軽運送をこれからスタートしようとして、このページを訪れた人が見たならば、今現在の赤帽組合の実態は私にはわからないですし、同じ説明会を受けても、その受け取る内容は人の数だけあるものだと思います。

最終的に、ご自身の判断で決めてくださいね。

  • 開業する/しない
  • 軽運送/それ以外
  • 赤帽でスタートするのか/他の組織で始めるのか

自営業者としての人生の舵取りは、既にそこからスタートです。

ご自身で先入観を捨てて赤帽説明会を聞いて、その上で自己責任で考えてください。

赤帽組合を選んだ理由

開業当時の1997年、私が赤帽を選んだ理由を書いてみます。

軽運送開業を斡旋する組織は色々ありました。それらの説明会に妻と共に足を運んでいたのですが、唯一、勧誘的な話が無いままで説明会が終わったのが赤帽組合だけでした。(私の聞いて回った日時の説明会と言う限定です。更に私と言うフィルターを通した耳にはそのように聞こえました。と言う主観的な感想ですから他人には逆に聞こえる可能性だってあります。)

それと、当時住んでいた関東エリアでの話ですが、街にいる赤帽さん数名に無作為に突然お声がけして、実際の業務状況やご苦労などヒアリングして回りました。

その結果として、まあまあ、なんとか出来るような気がして、赤帽に決めました。

赤帽開業 1997年

1997年、赤帽組合にフランチャイズ加入金(名称間違っているかも(笑))等をお支払いして、屋号を決めて、営業ナンバー取得をご指導いただいて、赤帽ももちゃん便と言う運送店を仙台市泉区の実家を拠点にスタート出来ました。

研修会スタート

すぐに赤帽実務の研修(サラリーマンで言うところのOJT)がスタートしました。

指導する先輩も同じ個人事業主ですから、一般的な企業のOJTほど手取り足取りではありませんが、荷物の持ち方、腰の使い方、運送屋としての挨拶(意外とこれが出来ない元サラリーマンがいるそうです)などをマンツーマンで教育されました。

私の母校である東北学院大学の先輩にあたる人が、その流れで赤帽宮城中央センターで当時の専務理事だったので、赤帽としてスキルレベルの高い人の個別指導を受けらたのは幸運でした。

それ以外にグループ研修もありました。

ほぼ同じ時期(数ヶ月差程度)に入った新人の赤帽組合員が数名おりましたので、赤帽宮城の会議室に毎日集められました。

講義の内容は赤帽組合の歴史や赤帽が取り扱う業務の種類、料金の簡単な説明なども説明を受けました。

当時の講師であった副理事長は元軍人だったらしく、高い統率能力があり、講義中の話術も巧みで沖電気工業の部長クラスに引けを取らない迫力のリーダーシップを感じました。

研修中、偶然目撃したのは、高齢になった10名程度の赤帽組合員の慰安旅行でした。組合本部前にバスが来て、高齢な組合員たちを乗せて行きました。

個人事業と言えども福利厚生もあるのかと驚いた記憶があります。(現在、その制度があるのかは存じません)

実務研修スタート

当時の仙台の赤帽組合は、そのメインが宅配だったので、最初の1ヶ月は宅配オンリーの実習でした。

早朝5時過ぎ?に組合に集まって、荷物の仕分けから始まり、夜は宅配がご迷惑にならない20時頃まで土日も含めて毎日休みなしで頑張りました。(これは強制された時間では無く、ある程度自己裁量です。)

サラリーマン時代も人生の全てを仕事に捧げていたような状態だったので、この程度の勤務時間は屁の河童と楽しく過ごしておりました。

恥をかきながら

お恥ずかしい話ですが、私はサラリーマン時代は宅配伝票をきちんと見た事もなく、開業して初めて宅配の複写伝票を目にしました。

代金引換の宅配物を配達した時に、受取って頂いた奥様がクスッと笑っていたのですが、理由がわからず気のせいかな?と不思議に思っていたら、「代引きだからお金を受け取る私がサインして来るはず」と思って私自身がサインして来た為だった。

と後で知りました。

このような技術バカの世間知らずだった私が軽運送業をスタートするには、やはり組織に加入して正解だったわけです。

 

開業年度の業務状況

赤帽組合所属の組合員の一人として、赤帽組合の仕事をメインにして、その合間に細々と自営で直接獲得した仕事をこなす業務状況でした。

おそらく比率は組合業務が90%以上でした。

その後、営業活動ですが、東京のサラリーマンでしかも業界に一切の関わりの無いエンジニアでした。

よって、まずは手堅く身内のコネクションを伝って営業活動を行いました。

それでも、新人赤帽に大事な荷物を預けるほど甘い話はそうはありません。

二十年間この業務を経験した今、はっきりと言えるのは、緊急チャーター便は豊富な経験値が必要で新人に任せるものではありません。(笑)

そして、仙台で赤帽チャーターを使う企業の大半は、既に業界王手の赤帽組合を利用しているので、組合のお客様に手を出すわけにも行かず、営業先もなかなか見つからない壁もありました。

世の中、甘く無いと知る時期でした。

堅苦しい性格を武器に

最初は欠点になる生真面目さ

私は東京の沖電気工業でのシステムエンジニア時代に叩き込まれた、細部まで検討された厳密なソフトウエア設計技法、何があってもシステムダウンしないイレギュラー設計、それでも含まれるバグを想定したリカバリー対応、ISO9000などの品質管理手法を学んで来ました。

赤帽開業した当初、それらの厳密な設計ノウハウの経験が災いしました。

元々の私自身の堅苦しい生真面目性格と、業務ノウハウが相まって、赤帽組合員の輪に溶け込めずにおりました。

私は、主語が明確にならない等の省略形の会話は不得意なのですが、軽運送業界の会話では逆で主語をはじめとして途中省略形での会話が多く、その違いから赤帽組合員の雑談の輪に溶け込みにくい寂しさを感じておりました。

そもそも、取り方次第ではどうにでも取れるアバウトな会話では、私のような堅物は意思疎通が難しい状況でした。

でも運送業界に長い諸先輩は、その短い会話で相手の意図を汲み取る技に長けているように見えました。私の妻もそれらの会話が理解できており、私だけ会話について行けてない寂しさと焦りの時期。

自分の道を模索する

脱サラ開業した当時の私は、当然ながら得意先など皆無でしたので、主として赤帽組合、先輩赤帽店、大手運送会社などの下請けをする事が多かったのですが、それって顧客と私がダイレクトに商談した仕事では無いわけです。

元請けを経由して、受け取る配車指示には荷物の詳細(寸法その他)などが無い事も多く、しかしながら、元請けを飛び越えて私が納得するだけの情報をユーザーから聞き出す権限もありません。

これが私にはストレスでした。

実際に現場に行って見ると、赤帽一台に入らない荷物だったり、労働内容が過酷すぎて運賃に割りが合わない場合、作業員1名では危険で運搬できない大型家具を養生必須な分譲マンションに搬入とか、アバウト過ぎる情報だけで業務対応することに不安に感じる経験をしました。

多くの同業の先輩方はそのような場面でも切り抜ける強さがありますが、私はそのような場面で楽しく仕事が出来ませんでした。

とりあえず、郷にいれば郷に従えですから、下請けをしている間はその方式で頑張るしかありません。

こんな私の性格、サラリーマン時代の業務経験から来る軽運送業界への違和感は、数年頑張っても消えず、むしろ増えて行きました。

その状況を打開すべく、自分で納得して安心して商売を出来ないか? その方向性を考え始めてました。

 

インターネット活用 1998年頃?

元の職業でパソコンがツールとして日常的に使う道具であった事や通信プロトコルに精通していたことから、当時、まだ東北では普及していなかったインターネットを利用した宣伝を早期導入出来ました。

おそらく仙台の赤帽でホームページを最初に公開していたのか? テレビ、ラジオ、全国紙の密着取材を何度も受けるようになりました。

欠点を受け入れる 2000年頃?

この私の性格とキチンとやりたい性格は、軽運送社会で下請けするにはストレスが半端ないので、開業数年は、私が合わせよう、この業界ルールに慣れようと頑張っていたのですが、これは私には難しいと諦めに至りました。

逆に、この堅苦しい性格を生かそう

そして、私の堅苦しいやり方を好むお客様とだけ、お付き合いすれば良い!

と開き直ることにしました。

当社に合った営業方針

結論的には、堅苦しくても良い、そんな営業方針にしました。

キチンと情報を整理して、ストレスの無い仕事がしたい。

そのためには下請け比率を下げて行くしかない。

つまり自営率を上げることで相対的に下請けを減らす。

そして私が直接営業する仕事だけは、納得する詳細な内容で商談すると決めました。

意外な発見

自営率を上げようと営業活動に邁進する中で、お客様の中には、私が細かく荷物内容を聞こうとすると、面倒だと嫌う方もございました。意外とチャーター利用する企業の中には、そのような企業が多いです。でも、その場合は当社とは合わないと判断して無理に商談続行はしませんでした。

そんな強気で生き残れるのか?と言う不安もありましたが、その路線で頑張っていると意外な発見がありました。

私から詳細情報を聞こうとしないでも、お客様から率先して細かい部分まで伝えて依頼を頂くお客様もいました。

あるいは、私が質問する事で、それ以上に情報提供いただけるお客様もいる事に気がつきました。

そのようなお客様は、当社に依頼を出せば、担当ドライバーまで、最大漏らさず細かい厳密な配車指示が出ている事で信頼に繋がり、結果的に当社リピーターさんになって行きました。決して多くの企業がそうでは無いので、大きなマーケットとは言えませんが、私の生真面目な性格、エンジニアで叩き込まれた品質管理手法、それがプラスに働くお客様もいる事を実感しました。

それ以来、私の欠点をそのまま受け入れて、堅苦しいけれどもチャーター失敗の少ない運送会社を目指して歩んでおります。

この話は私だけの話のようで、ある先輩赤帽に聞いたら営業活動やクレーム対応、そのような気苦労をするよりも下請けに徹する方が気が楽だし、余計なお金もかからないと言っておりました。

確かに、人それぞれ、どこがストレスで、どこが楽しいかは違うものだと思いました。

下請け業務0%

開業から5年目ほどで、お陰様で自営率がほぼ100%になり、その後は、赤帽組合や仲間の軽運送業者に仕事を出す側に回って来まして、いつの間にか下請けは一切しなくなっていました。

グループ営業 2004年頃

個人事業の赤帽として受注しても、自分のキャパを超える日が多くなりました。

お客様は「桃井さんが来ないの?」と言われる事が増えて来て、どうしたもんじゃろのー と考えて、実態に合わせる営業を考えました。

「赤帽ももちゃん便グループ」と言う名刺を作成、パンフレットも営業資料も、最初からグループ対応を前面に出すようになりました。

規模拡大を実験

この頃は、業務規模、稼働台数を増やすことが商売安定の最善の道と信じていたので、どんどん営業して、定期業務、台数が必要な業務を入れて行きました。

早朝、午前、午後とそれぞれに10台ほどの台数を手配するのが珍しく無い、配車と現場視察だけで忙しい日々になって来ました。

赤帽の広告塔 2007年頃

赤帽組合員としては珍しく、当時最先端だったインターネットを活用する営業方法が話題となり、テレビの密着取材( 東北放送 、 仙台放送 )や TBCラジオ、全国誌(リクルートアントレー別冊独立辞典特集)など頻繁にメディアに出させて頂いて来ましたが、
その経緯で当時の全国赤帽組合連合会の副会長(森氏)とも懇意にさせて頂いており、首都圏の赤帽組合連合会の入会案内パンフレットでもモデルケースとして登場して赤帽の広告塔的存在になった時期でした。

この頃は長距離チャーター中に、遠方のサービスエリアなどで休憩していると見知らぬ現地の赤帽さんから声がけされて、業界では意外と有名になっていた時期でした。良い噂も、根も葉も根拠もない噂まで一夜で広まる驚きの時代でした。

個人事業→株式会社 2009年

「赤帽ももちゃん便グループ」としての組織的な営業に慣れてきて、正式に法人格を取得して「株式会社ももちゃん便」として個人事業を卒業して会社経営に移行しました。

この年度はまだ業務メニューは赤帽時代のままで、定期的な台数の必要な業務も、個人様の引越し業務も、なんでも受注していた雑食性の状態でした。

パワーゲート業務開始 2009年

超音波診断装置(エコー)のパワーゲート付き軽トラ輸送に取り組む。
軽運送業界では希少価値だったパワーゲート付き軽トラック(ホロ)2台を増車する。
赤帽サンバーパワーゲート

東日本大震災 2011年

東日本大震災3.11がありました。
幸いにも当社の自宅兼事務所は、仙台でも内陸部に位置しており建物、車輛とも大きな被害は逃れました。
また当日の沿岸部への配送は午前中のみで、震災発生した午後には全ドライバーが内陸に戻っており、当社の契約ドライバー全員が無事に生き残りました。
プライベートな話ですが、長女の婿殿は、震災発生から津波発生の時間帯は沿岸部でレッカー車による仕事中だったそうですが、その車を乗り捨てる決断でなんとか無事に命が助かりました。
そのまま避難した高い建物の屋上で寒さの中で一夜を過ごしたそうです。
沿岸部へ嫁いだ長女との連絡が震災の翌日まで途絶えてしまって大変不安になりましたが、家族で複数の避難所を探し回り、仙台市内の避難所の校庭で自家用車の中で仮眠していた娘を発見。
婿殿の待つ嫁ぎ先の東松島市への移動は道路も鉄道も寸断され無理だったので、とりあえず仙台市泉区の我が家に連れ帰りました。
当面は道路も電車も寸断されて連れて行けない状態で親子4人の懐かしい生活に戻りました。
ちなみに私自身は3.11震災発生時刻には、秋田市内で精密機械チャーター輸送途中で秋田は震度5でしたが、秋田全域が停電してそのまま夜になっても回復せず。
ガソリンが無いのにスタンドは閉鎖されており、災害時営業スタンドの看板を頼りに何時間も並んだら「緊急車両のみ受け入れます」と言われ絶望。
家が不安なのに仙台に戻れず、電話も通じない不安な一日でした。
しかし、親切な現地警察官の助けで帰り分ギリギリのガソリンをなんとかゲット。
被災した凸凹道で、街灯も信号も無い真っ暗な夜道を仙台まで戻りました。
そのあとが長女の救出でした。
震災から一週間程度経過した時には、救援物資輸送業務でマスコミも入らない沿岸部の現状を見て人生観が変わりました。

現在でも大手運送会社様からの契約締結のお話は時々頂くことがありますが、一切お断りしております。その理由は大手運送会社と言えども、エンドユーザーとの間に入られてしまうと、微に入り細に入りなお客様との打ち合わせが出来ないからです。

また、一般的に大手運送会社の提示する契約書は、自然災害も含めて、何があっても全責任を下請け業者が持たねばならず、しかしながら小さなチャーター専門の会社である当社は貨物保険の範囲内しか責任を持ちかねますので、いずれにせよ運送会社の下請けは一切出来ないと考えております。

赤帽フランチャイズ卒業 2012

当時すでに赤帽組合からの下請け業務は皆無だったのですが、開業時にお世話になった赤帽組合の看板を下ろすのも寂しく、実態は独立した株式会社ももちゃん便でありながら赤帽のフランチャイズ看板だけ残して来ましたが、逆に個人事業と株式会社の違いなどの点で顧客に混乱を招く場合もあり、また赤帽の看板を所持するには赤帽専用サンバーしか所持できないデメリットもあり赤帽からの脱退(今風に言うと卒業)を致しました。
赤帽時代との違いは、個人引越しを廃止して企業チャーター専門の運送会社として生まれ変わった点です。
純粋に株式会社ももちゃん便として新スタート!
こうしてみると昨年の震災以降に大きな変化がありました。

初ターボ車導入 2012

赤帽卒業の理由でもありますが、赤帽専用車のサンバー以外の車を使いたい場合、赤帽の規則をこっそり犯すのか?潔く赤帽専用サンバーを買うのか?それとも別な意味で潔く赤帽を脱退するのか?その選択肢となります。

私の場合は前の所に書いた事情も合わせて、赤帽を円満に卒業してのターボ車の導入となりました。

企業チャーターに最適な高性能ターボ車としてエブリーJOINターボ導入しましたが、当社の利用内容ではエブリーターボでは耐久性が弱く、今はホンダとダイハツのターボに切り替え絶好調。

エブリーJOINターボ

新たにターボ車 2014年

スズキのエブリーターボが早々に壊れてしまった事から、2014年時点で軽貨物で最高性能と思われる車を導入。
ダイハツのハイゼットクルーズカーゴOEM版でスバル富士重工業のサンバー・VCターボ4WD 5MTを導入。
エブリーJOINターボに比較して当社の業務に最適である上、スバルディーラーの対応も赤帽時代からの営業車に慣れている為に修理メンテの対応も素晴らしい。

サンバーVCターボ

パワーゲート欠点克服

これまで力を入れて来た「パワーゲート車」の欠点を改善すべく新型特殊車両の導入。
当社だけのホンダN-Box構造変更車両です。
福祉車両ベースに床を更に低床化するなどの構造変更で営業ナンバー取得。
ホンダディーラーの対応は営業車にさほど慣れてないのですが、大変素晴らしい対応でした。
おそらく、次もホンダで買うだろうと思います。

パワーゲートを超える安心感

イメージガール 2015

当社HPのイメージガールです。
この時代は、エリカは東京の劇団ひまわり在籍中で舞台、映像、ユニット活動をしておりましたが、現在は本来の目的だった声優として「Still Wood Garden」と言う事務所に移籍して声優、俳優として頑張ってます。
声優・俳優の桃井絵理香HP

桃井絵理香 声優 俳優 ピーベリー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続きはまた今度

たくさん書きたいことがあるので、この続きは時間のある時に徐々に書き足してゆきます。

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