幕張のWBG、東京芝浦の本社ビル、三鷹の電気通信研究所など、まるでドラマの世界みたいな素敵な職場で技術者として勤務してましたが、軽運送業者になる決意と共に脱サラました。

妻と子供を養うためには休む暇はありません。脱サラしたすぐ後に赤帽ももちゃん便を開業しました。開業エリアは運送業の仕事量の多い首都圏も考えたのですが、土地勘のある仙台へUターンしての開業となりました。

サラリーマン時代のIT経験から当時まだ東北の赤帽では珍しかった手作りホームページによる宣伝とメールフォームを使った商談システムを採用しました。
当時はiモードがサービス開始するなどタイミングが良かったです。
赤帽ももちゃん便としての営業ではなく、赤帽ももちゃん便グループという名称で営業開始。
自分自身が走るよりも沢山の赤帽仲間に配車する業務が多くなって行きました。
当時最先端だったインターネットを活用する営業方法が話題となり、テレビの密着取材( 東北放送 、 仙台放送 )や TBCラジオ、全国誌(リクルートアントレー別冊独立辞典特集)など頻繁にメディアに出させて頂いた経緯で、当時の全国赤帽組合連合会の副会長(森氏)とも懇意にさせて頂けるようになりました。
首都圏の赤帽組合連合会の入会案内パンフレットでもモデルケースとして私と妻が掲載されて赤帽の広告塔的な立場になっていた時期でした。


既に赤帽ももちゃん便グループとして可動台数も多かった頃、たまたま主要取引先との契約で法人格が必要となった為、若干背伸びでしたが法人化しました。

当時は早朝から午後まで、多くの台数の仲間を沿岸部に配車する定期業務がありました。幸いにも一台の赤帽仲間も失うことなくすみました。
しかし、主要取引先が複数社津波の被害に遭ってしまいました。
一方で被災地への支援物資のチャーターが多発してテレビでは見ることがないような本当に壮絶な世界を目の当たりにして人生観が変わりました。
赤帽の看板を下ろすのは寂しくもありましたが、赤帽組合には赤帽専用サンバーしか買ってはならない縛りがありました。私は赤帽車以外の車を使いたい思いから、仕方なく赤帽組合を脱退することに決めました。
企業向けの緊急チャーター便のお仕事には、ターボエンジンの車が最適だと考えていたので、ようやく夢叶って導入できました。当時の赤帽車は過給機付きと言えばスーパーチャージャーがあったのですが、スーパーチャージャーの欠点は燃費が悪いことでリッター5Km程度でしたので業務用としては辛いものがありました。


当時はAmazon配送がなかったので、乗用ワゴンの構造変更車は稀でしたが、その時代に本田N-Boxカスタムターボのスロープ車を構造変更(車検の取り直し)してパワーゲート車の仕事を行うようになりました。


東日本大震災(3.11)の津波被害、その後コロナ自粛による大きな変化がありました。その影響から大規模な定期便(毎日、多くの台数を定期的に動かす)仕事は段階的に終了し、スポットチャーター便と精密機械の時間指定配送に経営の軸足がシフトしました。
スポット対応は固定費をかけない身軽な個人事業主の方が良くなりました。更に取引契約の為に法人格が必要だった企業様とのご縁が終了し、法人格を維持するメリットがほとんど無くなり、15期の節目で株式会社は解散処理を行い、個人事業主ももちゃん便に戻りました。元々、身の丈として個人事業主だったので、これでホッとしております。
、身軽になった分だけ、本来必要な事に経費をかけて、貨物保険は従来は1000万円でしたが、個人事業主になった日から1500万円にアップしておりますので、個人事業主になって益々安心して頂けたらと思います。もちろんインボイス対応です。
法人から個人に戻すことで身軽になりました。しかし信用度まで軽くなっては困るので、貨物保険は株式会社時代の1000万円ではなく、1500万円に増額させていただきました。
今まで以上にご安心して仙台軽貨物ももちゃん便をご活用ください。もちろんインボイス対応ですし。

