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そもそも、なぜ軽運送を選んだ?– 脱サラ –

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誰でも前職は聞きますよね

ももちゃん便の契約ドライバーさんを探す時、この業界に入られる前のその方のご職業を聞かせて頂いてます。運送屋になる以前の経歴をお聞きすると、その方の頭の中に蓄積された常識が予想でき、どんなチャーター業務への強みがあるか判断できます。
契約後に人それぞれの適性に配慮した配車する為にドライバー契約する前に前職もお聞きしてます。

逆に言えば、お客様から見た私にも、同じ興味が湧くのではないかと考えました。

一部上場から軽運送

私は、安定した大企業である沖電気工業の技術職を辞めて軽貨物の自営業者になりました。

しかも、なぜ、せっかくの一部上場企業の安定した立場を捨てて、不安定極まりない自営の軽運送業の世界に転職したのでしょうか?

まず沖電気工業の退職理由ですが、地方都市仙台から故郷を捨ててまで、わざわざ東京に行ったからには一旗上げて故郷に錦を飾りたいという強い思い。

それが災いしたのでしょうか、若気の至りなのか頑張り過ぎて身体を壊してしまいました。(今は完治してます)

沖電気工業は大きな会社ですから、身体を壊した私にも次の進路を示してくれました。

残業が多い技術職ではなく、残業なしで働ける事務職に配属替えはしてくれました(感謝)。
ただ、私は子供時代から目指した技術では無く、事務職になっても沖電気のお世話になる事への違和感がありました。

不得意な事務仕事となる事。新人レベルからリスタートでは会社に迷惑もかけるし、結局はその職場でも頑張り過ぎそうです。そんな性格から別な道を模索するようになりました。

さて沖電気以外へ転職は仕方ないとして、そもそも何故、過酷だと誰でも予想出来る軽運送に進んだのか?やっぱり疑問ですよね(笑)。

お客様に一部上場のサラリーマンから軽運送なの?と驚かれます

私は、安定した大企業である沖電気工業の技術職を辞めて軽貨物自営業になりました。

しかも、なぜ厳しいと予想される軽運送業の世界に転職したのでしょうか?

まず沖電気工業の退職理由ですが、地方都市仙台から故郷を捨ててまで、わざわざ東京に行ったからには一旗上げて故郷に錦を飾りたいという思い。

それが災いし頑張り過ぎて身体を壊してしまいました。(今は完治してます)

沖電気工業は大きな会社なので、身体を壊した私に残業多い技術職は無理だと知り、残業なしで働ける事務職に配属替えはしてくれました(感謝)。
ただ、私は子供時代から好きだった技術系では無く、事務職になっても沖電気のお世話になる事への違和感がありました。

不得意な事務仕事となると、またゼロからで会社に迷惑をかけるし、結局はその職場でも頑張り過ぎそうな性格から別な道を模索するようになりました。

転職は仕方ないとして、そもそも何故、過酷だと誰でも予想出来る軽運送に進んだのか?
ですよね(笑)。

ある方のアドバイス

当時、東京でお世話になっていた方が元天風会(財団法人天風会)の理事だった方で、ビジネスにも成功哲学にも精通している方でした。
その方から頂いたアドバイスが、

天風会の元理事

貴方が寝食忘れても出来る事は何ですか?そこにヒントが有りそうです。

わたし

その瞬間的に浮かんだのは運転に関わる仕事でした。

しかし合理的に考えたらあり得ない選択でした。
エンジニア畑を歩んで来た私がキャリヤを全く生かせない運転手?
背広とネクタイの姿しか見てない友人、親戚からもホワイトカラーからブルーカラーか!と驚かれるに決まってる。

それでも、その方のアドバイスが良いと感じたので、ドライバーとなる決意をしました。

お客様と直接触れ合いたい

運転手する場合でも、自営業ではなく、大きな運送会社にドライバーとして雇用される選択もあったのですが、自分で起業する道を選びました。

その理由は、前職、沖電気工業は大企業ですから仕事中はパソコン画面が相手でした。それ以外はプロジェクト内のディスカッションや週一回くらい関連各社が集まり専門家同士の打ち合わせの世界でした。

何が言いたいかと言うと、当時の私はエンドユーザー、実際にシステムを使うお客様とダイレクトに接することがありませんでした。

それが悪いのでは無く、それは大企業の大規模なプロジェクト方式のメリットです。とても効率的で、尚且つ専門性の強い仕事に専念できる良好な環境なのですが、この先の選択肢はそれまでの反動から違いました。

良く漫画のシナリオで人生2周目とかありますが、ある意味それなので、せっかく人生をやり直すのであれば、次は、実際にお客様の顔を見て、お話をして、ダイレクトに手応えを感じる仕事がしたいと考えました。

当時は身体を壊していたこともあり、全てを自己責任で仕事のペース配分も自分で決めたいという思いもありましたので、運送会社に雇われるドライバーでは無く、自分で起業しようと決めました。(今は病は完治してます)

お客様から自分に仕事をダイレクトに頂いて、そのお仕事(お金)に心より感謝して対応させていただく。

誠心誠意のお仕事でお客様にも喜んで頂けたなら、その様子を自分でダイレクトに感じることが出来るはずだと考えました。

その為には、運送屋の世界でも大きな会社に雇われるのではなく、自分で起業する道が良い。

運送業のノウハウも資金も無いので、トラック台数を揃えてからスタートする縛りのある一般貨物は難しいので、軽貨物の道が最適だと考えました。

ももちゃん便

そんな事をイメージしつつあった頃、タイミングよく家族ドライブ中に軽運送の車とすれ違い、その瞬間に「これがやりたい」そう確信しました。

妻も賛成してくれてお陰様で開業することができました。

もちろん、いきなり畑違いの軽運送に飛び込んだのではなく、赤帽さんをはじめとして街中で仕事中の軽運送の方々に、突撃インタビューを繰り返して、実態調査をしました。

実際のドライバーさんだけでは無く、軽運送業者を束ねる組織にも話を聞きに行って、説明会も受けてみたりしてから、その先に私の開業でした。

子供の頃から運転大好き

小学生の頃は自転車で走り回る毎日でした。

中学、高校生の頃は、少し遠い学校だったので、自転車通学が許可されていたので、ブリヂストンのロードマンで朝夕の通学が楽しい時間でした。雨の日も雪の日も強風の日も自転車でした。当時の家は高台にあり、帰り道は必ず上り坂ですが、坂を登ることすらも楽しみでした。休日はお気に入りのロードマンで遠出していました。普通ならバイクや車で行きそうな遠くまで自転車で行くことに違和感もなく過ごしてましたが、友達からそんな遠くまで行くのか?と驚かれて自分の感覚が変わっていたのか?と気付きました。

大学生になるとバイクと車の運転が趣味になる

バイク XL-125S
バイク XL-125S

大学生になると、中型自動二輪と普通自動車免許を取得していたので、バイク(スズキGSX400E、ホンダCB250RSZ、ホンダXL125R,XL125S)や父親から借りて乗る(日産スタンザマキシマGTE)で遠くまツーリングやドライブを楽しみました。特に車は父の物を借りる代わりに家族全員の送迎を朝から晩までやってました。運転自体が好きだったので朝から晩まで何回も呼ばれても苦にならず、思えば365日、24時間受付する今の商売の元になる経験でした。

そういえば、大学時代のエピソードですが、親友たちとツーリングやドライブの打ち合わせの時だったと思いますが、出来るだけ遠くへ行きたい、「例えば九州」と提案した私に、全員猛反対。

その日に付けられたあだ名は、「例えば九州」でした。

在学中、仙台から九州地方までドライブやツーリングは実現しませんでしたが、軽運送の仕事で実現することとなります。さすがに軽自動車で九州は辛過ぎて往復トータルで何泊も必要ですが(笑)。

始まりは赤帽だった

この写真は赤帽時代にテレビ密着取材の時の一コマ。
当時としては珍しくインターネットフル活用の赤帽として。

赤帽時代にテレビ取材中に撮影された写真
赤帽時代にテレビ取材中に撮影された写真

軽運送は夢のような仕事

大学時代は、仲間に笑われ九州までのドライブは実現せずでしたが、軽運送の仕事を始めてからは、福岡市まで急ぎのチャーターを走った事もあり、学生時代に叶わなかった夢である「例えば九州」が仕事として叶うようになってました。

ドライブ好きな私には最高の天職が軽運送です。

やり甲斐ある仕事

軽運送の特にチャーター便は、スポット配送なので商売として売上は不安定で、心まで不安になる事も多いです。

それでも1997年の創業から今日2024/09/16まで続けて来れたのは、第一にご依頼くださる企業のお客様のお陰です。

もう一つ、不安定な売上となるスポット配送を継続するモチベーションは、とてもやり甲斐を感じるお仕事だからです。

スポット配送は、色々なご依頼がある中で、代表的なのは「とにかく急ぎたい荷物」への対応です。

何らかのご事情で大至急届なくてはならない。しかし、宅配便では間に合わない。そんな場面なので、荷物を出す荷主様も、遠くの受け取り側のお客様もももちゃん便の敏速な集荷とお届けに大変お喜び頂けます。そして、その手応えをダイレクトに感じられるのがチャーター便のお仕事です。

以上、そもそも何故?について書いてみました。

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