1997年 脱サラ→赤帽ももちゃん便
一部上場企業からの脱サラ
こんな素敵なオフィースビルに通勤する生活を手放しました。友人知人からはビックリされました。

沖電気工業株式会社で私の所属部署では、当時は東京、三鷹、幕張などに拠点がありました。
在職中、田舎者である私には過労とストレスが重なり体調を崩してしまいました。
残業が常態化する技術職での業務継続は困難との医師の診断を受け沖電気を退職いたしました。(驚いたことに、その時の診断は難病でしたが、更に驚いたことに、退職後のたった数年で例外的治癒し、あれから30年経過した現在も健康ですから難病が本当に例外的治癒することがあるんですね)
妻は、私がサラリーマンとして働くことを前提に結婚したにもかかわらず、一部上場企業を退職し、個人事業という全く異なる道を選ぶという私の決断に賛同してくれました。
振り返ってみれば、この事業は妻のサポートがなければ、技術に偏重していた私には困難を極め、数ヶ月で廃業に追い込まれていたでしょう。また、当然ながら大企業の安定した職を捨て、個人事業を選択したことに対して、妻以外からは周囲の反対意見に直面しました。そのような状況下において、意外にも国家公務員として安定した職と社会的地位を重んじる父が、私の選択に反対しなかったことは、大きな支えとなりました。
この選択は、開業から5年間、妻をはじめ家族に経済的・精神的な負担をかけるものでしたが、当の本人は赤帽業務に日々邁進し、大変充実した時間を過ごしておりました。若かったとはいえ、甘かったと言わざるを得ません。
最初は「赤帽ももちゃん便」として開業
ソフトウェア技術者から軽運送の個人事業主への転職は、全く異なる分野であり、ノウハウは皆無の状態でした。そこで、東京都内で開催されている軽運送オーナー募集の説明会にいくつか参加しました。中には、詐欺的な印象を受ける組織もあり、楽観的な話ばかり聞かされ、本当にそのような甘い話があるのかと半信半疑でした。
そのような中、当時の東京都内の赤帽の説明会では、楽観的な話をせず、開業を勧めるでもなく、逆に信用できると感じました。
加えて、仙台での開業にあたり、次の様な助言を頂きました。
組合組織は東京の赤帽とは異なる体制となっております。つきましては、改めて仙台でも説明会にご参加いただき、ご検討いただくことをお勧めいたします。
この様に東京の赤帽組合より助言をいただいて親切でした。
この経験から、軽貨物事業の開業先として赤帽を選択するに至りました。その後、仙台に戻り、赤帽宮城中央センターの説明を受けた上で、正式に赤帽フランチャイズに加盟し、赤帽組合員となり「赤帽ももちゃん便」という屋号も取得。今現在の「ももちゃん便」の原型となる運送店を設立したのは1997年のことです。

2004年、単独の赤帽ではなく「赤帽ももちゃん便グループ」としてグループ化されました。
業務規模の拡大に伴い、私一人では対応が困難な状況となりました。そこで、「赤帽ももちゃん便グループ」という名称を用い、信頼できる赤帽仲間を集め、グループ営業活動を開始いたしました。毎日休むことなく、早朝、午前、午後と多くの稼働台数が必要となる業務を複数取りまとめ、顧客からも「ももちゃん便」は個人事業者ではなく運送会社として扱われるようになりました。
2007年 赤帽組合の広告塔になる
当時、赤帽組合員としては珍しかったインターネットを活用した営業活動が話題となり、東北放送、仙台放送のテレビ密着取材、TBCラジオ、全国誌(リクルートアントレ別冊独立辞典特集)など、多くのメディアに取り上げていただきました。そのご縁で、当時の全国赤帽組合連合会副会長(森氏)とも懇意になり、赤帽組合の入会案内パンフレットではモデルケースとして、赤帽の広告塔的な役割を担うことになりました。

2008年 法人化 赤帽ももちゃん便→株式会社ももちゃん便
既に赤帽ももちゃん便グループとして可動しており、配車台数も個人事業としては多くなりました。
毎日365稼動する定期業務も安定し、一部の顧客からは「桃井さんは運送会社として取り扱う」とまで言っていただけるようになりました。
そんな時期に、たまたま主要取引先との契約で法人格が必要となる取引があり、ももちゃん便としては身の丈に合わないとは思いつつ株式会社ももちゃん便として法人化しました。
2009年にパワーゲート車を導入して医療用超音波装置の輸送開始
軽トラックにパワーゲートを搭載し、超音波装置の輸送を開始。軽運送業界において希少価値の高いパワーゲート付き軽トラック(幌付きコンテナ)を2台増車。写真に示す2台は、いずれも幌付きコンテナのパワーゲート車です。パワーゲート自体、希少な存在ですが、さらに幌付きコンテナは、当時、私のみの特注による注文生産品でした。

赤帽専用サンバーのスーパーチャージャーエンジン仕様でした。2台ともパワーゲートを装備してます。
コンテナはホロ付きコンテナで幌材質も厚手で尚且つ二重化して強化され風防も付けて高速道路の走行にも万全の体制を整えました。

2011年 東日本大震災3.11を経験
2011年3月11日、東日本大震災が発生いたしました。幸いにも、ももちゃん便の自宅兼事務所は仙台市の内陸部に位置しており、建物および車輛ともに大きな被害は免れました。建物については、細かな点に被害が見受けられましたものの、大きな損傷には至りませんでした。また、当日のももちゃん便の定期配送において、沿岸部への配送は午前中のみであり、震災発生時には全ドライバーが内陸部に帰還しておりました。そのため、ももちゃん便の契約ドライバーは全員無事でした。
私事で恐縮ですが、長女の婿は、東日本大震災発生から津波到達までの間、沿岸部でレッカー車の業務に従事しておりました。幸いにも、車に乗り続けることはせず、乗り捨て高い建物へ避難を決断したことで、命に別状なく避難することができました。その後、避難した高層ビルの屋上で、寒さの中、一夜を過ごしたそうです。
長女は沿岸部に嫁いでおり、震災発生翌日まで連絡が途絶えていたため大変心配な状況でした。しかしながら、複数の避難所を捜索した結果、仙台市内の避難所の校庭にて車内で仮眠をとっていた長女を発見いたしました。婿殿の待つ嫁ぎ先の東松島市への移動は、道路および鉄道が寸断されており困難であったため、まずは仙台市泉区の自宅に長女を連れ帰りました。
当面の間、道路や鉄道が寸断され、移動手段が確保できない状況となり、家族4人で以前のような生活に戻りました。なお、私自身は3月11日の震災発生時刻、秋田市内で精密機械のチャーター輸送中に地震に見舞われました。秋田市では震度5の揺れでしたが、市内全域で停電が発生し、夜になっても復旧しませんでした。ガソリンが不足しているにもかかわらず、ガソリンスタンドは閉鎖されており、災害時営業の看板を頼りに何時間も並んだところ、「緊急車両のみ受け入れます」と告げられ、絶望的な状況でした。自宅が不安な中、仙台に戻ることができず、電話も通じない不安な一日を過ごしました。しかし、親切な地元の警察官の助けを借りて、帰宅に間に合うギリギリのガソリンを何とか入手することができました。被災により路面が荒れた道路を、街灯や信号もない真っ暗な夜道を仙台まで運転して戻りました。その後、長女の救出に向かいました。震災から約1週間が経過した頃、救援物資輸送業務で、マスコミも入らない沿岸部の現状を目の当たりにし、人生観が大きく変わりました。
2012年 赤帽組合卒業
開業当初より赤帽組合からの下請け業務は受けておりませんでしたので、赤帽に所属する意味はほとんどありませんでしたが、運送業を何も知らない開業時にお世話になった赤帽組合への感謝の気持ち、たくさんの赤帽仲間がいる組織から離れる寂しさからなかなか赤帽の看板を下ろすことはできませんでした。
そのため、実態はすでに独立した「ももちゃん便」でありながら、赤帽のフランチャイズ看板のみを残しておりました。
しかし、ついに卒業の時が来ました。
赤帽組合の縛りで赤帽専用サンバーしか仕事に使えない事が義務付けられており、私は赤帽専用車ではない他の車輌をチャーター業務に使用したいという思いがございました。
赤帽に所属したままそれを実行すれば規約違反になるので、お世話になった赤帽組合からの脱退(今風に言うと卒業)を決意致しました。
こうしてみると昨年の震災以降に大きな変化がありました。
赤帽サンバーから純白に全塗装しました
赤帽卒業で美白全塗装
赤帽組合を脱退したため、組合規定に基づき、赤帽専用カラーは全塗装が義務です。
純白への全塗装を、懇意にしている「ジェミニオート勝美」様にて実施いたしました。
プロの技術で塗装された純白のトラックは、新車同様の輝きを放ち、新たな門出に相応しい車となりました。

2012年 初めてのターボ車導入
赤帽の傘下から独立したことで、赤帽専用車のみの購入制限がなくなりました。
企業チャーターに最適な高性能ターボ車として、エブリーJOINターボやハイゼットターボを導入いたしました。


2014年 パワーゲート軽トラック廃止
これまで力を入れて来た「パワーゲート車」の業務を行う新型特殊車両の導入。
ももちゃん便だけのホンダN-Box構造変更で営業ナンバー取得。
ホンダディーラーの対応は営業車にさほど慣れてないのですが、大変素晴らしい対応でした。
おそらく、次もホンダで買うだろうと思います。


軽ワンボックス車を中心とした配車
自前車両はN-BoxCustomターボですが、契約ドライバーの車両は、エブリーバン、エブリーワゴン、ハイゼットバンなど、軽ワンボックス車が中心となっております。




