創業時は赤帽で救われた部分
1997年の赤帽ももちゃん便だった思い出
沖電気工業株式会社から個人事業主のギャップ
沖電気は東京の都心や幕張副都心にオフィースを構える一部上々の大企業。
そこをあっさりと辞めて、軽貨物の個人事業主になりました。
実際に個人事業主になるまで、社会的信用、他人の視線が、これほど激変するとは想定外でした。
30代男性が軽トラ一台の銀行ローンすら審査通らない(キチンとした保証人が必要)
知人に転職を伝えると露骨に変な顔される事がある
大変ですねえと同情されたり(相手の善意は理解してます)
会員登録やアンケート用紙に職業を書くのが嫌になった
他人との挨拶で職業を言うと驚かれる(世の中の大半がサラリーマンだから個人が珍しい)
服装も顔付もエンジニアのままだったのでギャップがあると驚かれる
赤帽で救われた点
個人事業でも赤帽だからマシだった事
上記リストのように、サラリーマンから赤帽になった事で、他人の視線が変わった、扱いが変わったのは、決して私の被害妄想や気のせいだけでは無く、ある程度は事実だと思います。もちろん、私の気にし過ぎもあったでしょう。
ただ、それでもまだ赤帽だから良かったのは、赤帽が全国的知名度がありメディアでラジオコマーシャルも流れてたので世間で認知度が高い。
でも、稀に高齢者の勘違いで、仙台駅などで荷物を手で運んでくれる人を赤帽だと思っている人がいました。
流石に、1997年当時ですら駅の赤帽さん(駅構内で荷物を運ぶ人)は古い話なので、令和の時代にこの勘違いは無いでしょう(笑)。
既に半世紀を超えて生きた私でも、その駅の赤帽さんは幼い頃に仙台駅でそれらしい人物を見た記憶が薄らある程度です 。
話を戻すと、私が開業時に職業や会社を聞かれた場合に、「赤帽です」と言えば何となくイメージが伝わって済まされるのが赤帽スタートした救いでした。
これは世の中の誤解ですが、赤帽が全国的な運送会社だと誤認してる人も意外と多いので、個人事業ではなく運送会社の社員、つまりサラリーマンだと思う人までいました。
赤帽と言う知名度が沖電気からのギャップの中で唯一の救いでした。
ギャップは過去の話し
今となっては、大企業と自分の仕事のギャップに対して、あの頃の様な変なコンプレックスは無いのですが、あの時は、突然の信用失墜に驚いたものでした。
勿論、今では、車を買うのにローンを組むとしても、保証人は不要ですし、そうなってからは一括払いで買うのでローン自体が不要なので、懐かしい話しです。