東京で沖電気工業(株)より脱サラ 1997年
沖電気工業と言う安定した上場企業のサラリーマンだったのに一転して脱サラ。
赤帽と言う個人事業でスタート。
更には、業界では知名度抜群の赤帽組合から独立。
現在のももちゃん便になるまでの経緯を書いてます。
1997年、私は東京にある沖電気工業株式会社でNTT交換機のソフトウエア技術者として働いてました。
学生時代から憧れの一部上場企業勤務で、勤務地もドラマの世界みたいでした。
この写真は当時、沖電気工業株式会社で私が所属していた基幹交換事業部が入っていたビルです。
海浜幕張駅前のワールドビジネスガーデン(略してWBG)と言うツインタワービルです。
当時はテレビドラマで頻繁に写るビルでしたが、あれから20年以上になる今でも良くTVの背景になってますよね。
こんな快適そうなオフィスに通いながらも、もったいなくも当時の私は、真面目過ぎで息抜きが出来ない性格で、限界超えて頑張り過ぎて体を壊して退職となりました。
でも、ご心配無く!その件は、既に、脱サラが幸いして例外的治癒しております
仙台へUターン
脱サラして運送業をスタートするには土地勘も必要と考え、千葉に購入したマンションも売却して仙台市泉区の実家にUターンしました。
若い頃はバイクや車が大好きだったので、この先は兎に角好きな事をして過ごしたい事もこの職業を選んだ理由になったのだと思います。
子供達には千葉から仙台へ転校という苦労を負わせ、妻にはママ友との別れや、主婦として慣れ親しんだ千葉エリア生活を終了させてしまいました。特に妻も子供達もディズニー大好きで足繁く通っていたランドからも遠のきました。
妻と結婚の時は、安定した大企業の奥さんとして、専業主婦として家庭の事だけ専念してもらえる予定で結婚してもらいました。
それがここに来て、まさかの自営業、しかも軽運送の世界へと巻き込みました。
更に、私の実家で両親と同居する事になってしまったので、仕事の面でも、家庭環境でも妻には苦労をかけました。
更に、予定外に早く仙台に戻って来たので、両親にも大家族化の苦労をさせたのですが、当時は周囲の迷惑を考える余裕も無く、自営業に邁進して行く事となります。
今になって思えば、家族が全員賛同してくれたのは奇跡的だと思います。
あの時、家族の協力が得られ無ければ、私は、あのままストレスの中で技術者勤務してたら、今頃は病が進行して生きてなかったと思います。今では完治したことから、今思うと、私は運送屋の道があっていたのでしょう。
エンジニアが畑違いの赤帽を選んだワケ
たまたま、それがキッカケ
そもそも、何故、畑違いにも程がある赤帽になろうと思ったのか?
今は完治した病ですが、その当時身体を壊してた私には一流企業のエンジニアは激務すぎて、退職の方向で考えており、そんな中での出来事でした。
たまたま、休日のドライブ途中、赤帽っぽい軽運送屋さんを見た。
その途端、これやりたいと思った。それがキッカケでした。
もう少し詳しい理由もあるのですが。
とりあえずノウハウを得たい
脱サラで軽運送を開業する場合に、私には何のノウハウも運送経験も無かったので、どこか所属組織が欲しいと考えました。
検討していた当時はまだ関東在住だったので、説明会を受けるにも色々な組織の選択肢がありました。
その中から私が赤帽組合を選んだ理由を書きます。
各組織の説明会を回る
軽運送開業を斡旋する組織は色々ありまして、特に仙台に戻る前は関東エリアで開業相談会に行けましたので、色々な組織の勉強になりました。
自己責任のスタンス
その相談会の中で唯一、勧誘が無く淡々とした説明会だったのが赤帽組合だけでした。(20年以上前になるので、現在の赤帽組合や他の組織の状況は不明です)
やるなら自己責任でと言う赤帽組合の現実的なスタンスが気に入り、スタートを赤帽組合に決めました。
独自調査も怠りなく
それと、当時住んでいた関東エリアの話ですが、街にいる赤帽さんなど、軽運送業者さんの業務中に、私から突然お声がけして突撃インタビューしてました。
それで彼らの実際の業務内容や売上、開業してからの苦労談などヒアリングしてました。
その結果、なんとか出来るような気がして赤帽開業を決めました。
今思えば、何を根拠に出来ると思ったのか?意味不明ですけど、実際に20年以上過ぎた今でも何とかなっているし、幸せな人生を送ってます。
仙台の赤帽で再説明を受ける
最初に受けた説明会は東京の赤帽組合でしたが、そこで言われたのは、赤帽組合も地域性があって全国同じでは無いし、仙台は特別変わっているので、決意する前に仙台の赤帽組合で再度説明を受けるように言われました。
東京は自営メイン/仙台は組合メイン
東京で言われた通り、仙台の赤帽組合で説明を聞きました。
業務内容は同じだったので、東京と何が違うのかな?と思っていたのですが、どうやら東京の赤帽組合は各自の自営が基本スタンス。
東京は自営指導
新人赤帽には仕事を一定期間だけ配車するので、その間に自力で自営業者として立ち上がってください。
いつまでも組合の配車(仕事のあっせん)は継きませんスタンスでした。
仙台は組合所属スタイル
それに対して仙台の赤帽組合は、自営推進では無く、赤帽組合の配車(仕事斡旋)受けるスタイルがベテランを含めて基本スタイルでした。
赤帽の新人もベテランも組合から仕事を委託されるのが基本スタンスで、むしろベテランになる程、その経験値から良い仕事にありつけるように思える説明でした。
つまり個人事業として一人でやるのでは無く、赤帽組合のいわば社員(ドライバー)として動くのが仙台の赤帽組合システムのようでした。
私の場合は、自営で独立したかったので違和感があったのですが、仙台の赤帽組合でも私が自営を目指すことに制限は無いと言う事でしたので、安心して仙台の赤帽組合所属で開業する決意となりました。
赤帽で実務研修
当時の仙台の赤帽組合はメイン業務が宅配でした。(おそらく現在は宅配はしてないだろうと思いますが詳細不明です)
赤帽宮城での研修中の様子などはこちらに
宅配実習
開業から最初1ヶ月は宅配オンリーの実務実習でした。
早朝5時に赤帽組合には赤帽車が沢山集まって来て、最初に荷物のエリア単位の仕分けから始まり、8時頃には各自が担当エリアに散って行く。
夜は20時頃まで配達して、不在の荷物は翌日に持ち越し。
その毎日の繰り返しでした。
土日も含めて休み無しで、1ヶ月間の宅配研修を頑張りました。
一ヶ月休み無しは楽勝
サラリーマン時代も仕事中心だった私には、この程度の休日返上や労働時間など屁の河童と楽しく過ごしておりました。
今思えば、ちょっと変だと思いますが、当時の技術者時代の私は、休日も自宅で仕事を出来るように高性能なPCを常に購入して、ソフトウエア開発環境(Cコンパイラーなど)を購入して常に仕事ばかりで、それが当然だと思い込んでましたから過労になるはずです。
技術バカ丸出し
お恥ずかしい話ですが、私はサラリーマン時代は宅配伝票を見た事も無し。
根っからの技術バカでした。
赤帽を開業して業務の都合で生まれて初めて宅配伝票に触れた世間知らずでした。
代金引換で配達した時に、配達先の奥様がクスッと笑っていて、何だろう?と不思議に思った日がありました。
代引は、お金を受け取った証拠に私がサインして来るはずと思ったのが勘違いで笑いを誘ったと配達した後から知りました。
このような技術バカの世間知らずだった私が軽運送業をスタートするには、やはり業界パイオニアの赤帽組合に加入して正解だったわけです。
インターネット活用した1998年
サラリーマン時代の経験から当時まだ東北の赤帽では珍しかった独自のホームページとメールフォームを使った宣伝と商談のシステムを採用しました。
メール商談は、外出先でもリアルタイムに行えるように、iモード携帯を導入して、当時まだパケット代が定額では無かったので、通信料金を気にしながらモバイルギアやポケットPC、Palm、ザウルスなどモバイルデバイスを使って商談しました。
メディアに注目される
その取り組み姿勢が赤帽としては珍しいとメディアに注目されました。
次々とテレビ、ラジオ、全国紙の密着取材を受けるようになり、知名度が上がり、仕事量が増えて来て、いつの間にか赤帽組合の配車を請けないでも食べて行けるようになってました。
グループ営業に移行 2004年頃
個人事業の赤帽として自分のキャパを超える日が多くなりました。
お客様からは「桃井さん自身が来ないのかい?」と言われる事が増えて来て、説明も面倒になって来たので「赤帽ももちゃん便グループ」と言うグループ名称で営業するように切り替えました。
赤帽の広告塔 2007年頃
当時最先端だったインターネットを活用する営業方法が話題となり、テレビの密着取材( 東北放送 、 仙台放送 )や TBCラジオ、全国誌(リクルートアントレー別冊独立辞典特集)など頻繁にメディアに出させて頂いた経緯で、当時の全国赤帽組合連合会の副会長(森氏)とも懇意にさせて頂けるようになりました。
首都圏の赤帽組合連合会の入会案内パンフレットでもモデルケースとして私と妻が掲載されて赤帽の広告塔的な立場になっていた時期でした。
この頃は長距離チャーター中に、遠方のサービスエリアなどでトイレに立ち寄ると、高い確率で見知らぬ現地赤帽さんから声がけされました。「あの有名な赤帽ももちゃん便さんですよね?」って具合でした(笑)。
赤帽業界では有名になって、引越し業界でも仙台では私くらいしかインターネット活用してなかったので、競合する引越し会社さんから見たら、赤帽でインターネットで競合するのが私くらいだったので、意外と引越し業界でも目立っていた事を最近になって知ることがありました。
名の知れた大手引っ越し会社から今でもライバル視されていた事を知って笑えました。ももちゃん便は既に引越しはしてません。
この頃の赤帽ももちゃん便は、良い噂も、根も葉も根拠もない悪い噂まで、一夜で全国の赤帽仲間に広まる驚きの時代でした。
パワーゲート業務開始 2009年
それまでは高額なゲート車など想定外でした。高額な上に用途が限られてしまうからです。
しかし思い切って購入、その後、軽運送業界では希少価値だったパワーゲート付き軽トラック(ホロ)を2台に増車しました。
東日本大震災 2011年
東日本大震災3.11がありました。
幸いにもももちゃん便の自宅兼事務所は、仙台でも内陸部に位置しており津波被害は逃れました。
また当日の沿岸部へのももちゃん便配車は午前中のみで、震災発生時刻である午後は、全ドライバーが内陸に戻っており全員が無事でした。
次はプライベートな話ですが、長女の婿殿は津波発生時間に沿岸部でレッカー車による仕事中だったため、その車を乗り捨てなんとか無事に命が助かりました。
そのまま避難した建物の屋上で寒さの中で一夜を過ごしたそうです。
沿岸部へ嫁いだ長女との連絡だけが、震災翌日まで途絶えてしまって大変不安になり、家族でいくつかの避難所を探し回り避難所校庭で娘が車の中で仮眠していた所を発見。
嫁ぎ先の東松島市へは道路も鉄道も長期間寸断状態だったので、とりあえず仙台市泉区の我が家に連れ帰り親子4人の懐かしい生活に戻りました。
ちなみに私自身は3.11震災発生時刻は、秋田市内で精密機械チャーター輸送途中で秋田は震度5でした。
それでも秋田全域が停電して、そのまま夜になっても回復しない。しかも自分の車は仙台から行ったのでガソリンが空に近いのに停電の為かガソリンスタンドは夜になっても閉鎖されておりました。
災害時営業スタンドの看板を出しているガソリンスタンドを頼りに何時間も並んでました。
何と何時間も待った挙句の果てに言われたセリフは「緊急車両のみ受け入れます」「一般人にはガソリンは売りません」
何時間も待たされた後で言われ絶望と宣伝に偽りアリ!の怒りでした。
厳密には、あの宣伝は偽りではなく、緊急車両(警察や救急車など)専用の宣伝だったのでしょうけど。
家の様子が不安なのに、ガソリンが無いから仙台にも戻れず、電話も通じない不安な一日でした。
しかし、親切な現地警察官の助けで、夜遅くになって帰り分ギリギリのガソリンをゲット。
被災した凸凹道で、停電の為に街灯も信号も無い、真実の真っ暗な夜道を仙台まで戻りました。
そのあとが長女の救出作戦でした。
震災から一週間程度経過した時には、救援物資輸送業務でマスコミも入らない沿岸部の現状を見て人生観が変わりました。
赤帽フランチャイズ卒業 2012 6/1
赤帽の看板を所持するメリットは大きかったのですが、その一方では赤帽専用サンバーしか購入できない縛りもあり、私は自分の業務に最適な車種を選択したいので赤帽組合脱退(今風に言うと卒業)を選択しました。
車両チョイスが自由
赤帽時代との違いは、個人の引越業務を廃止し企業チャーター専門の運送会社として生まれ変わり、それに最適な車を自由に買える立場になりました。
こうしてみると昨年の震災以降に大きな変化がありました。
初代ターボ車 2012
赤帽組合時代には、赤帽専用サンバーしか利用できない制限があったのですが、赤帽から抜けて独立した運送会社になったことで、車両の選択肢が自由になりました。
そこで企業チャーターに最適な高性能ターボ車と期待してエブリーJOINターボ導入しましたが、ももちゃん便業務ではエブリーターボは耐久性が弱く早々にリタイヤとなり1年半で買い替えに(笑)。
スバルのターボ車も導入 2014年
スズキのエブリーターボが早々に壊れてしまった事から、2014年時点で軽貨物で最高性能と思われる車を導入。
ダイハツのハイゼットクルーズカーゴOEM版でスバル富士重工業のサンバー・VCターボ4WD 5MTを導入。
エブリーJOINターボに比較してももちゃん便の業務に最適である上、スバルディーラーの対応も赤帽時代からの営業車に慣れている為に修理メンテの対応も素晴らしい。
パワーゲートからスロープ仕様へ 2014年頃
これまで力を入れて来た「パワーゲート車」の欠点を改善すべく新型特殊車両の導入。
ももちゃん便だけのホンダN-Box構造変更車両です。
福祉車両ベースに床を更に低床化するなどの構造変更で営業ナンバー取得。
イメージガール 2015
ももちゃん便HPのイメージガールです。
この時代は、エリカは東京の劇団ひまわり在籍中で舞台、映像、ユニット活動をしておりましたが、現在は本来の目的だった声優としてフリーで声優、俳優として頑張ってます。
2019年 現在の様子
赤帽は卒業して「ももちゃん便」となり、しばらく経過しました。
とりあえず、現在は緊急チャーター便と超音波装置輸送を中心に日々の急送業務に取り組んでおります。
この先、またどう変化するか分かりません(笑)、それは毎回、その時に突然決まるのが今までのパターンです。